東都八景
【近世文芸美術研究家 鈴木 重三(1919-2010)の解説より】
浅艸夕照
向島側から隅田川にかかる吾妻橋越しに西岸浅草観音堂の一帯を望んだ図取りである。夕風を帆にはらんだ荷船が二鰻前後してゆったりと青い水面を下って行く。対岸の家並み,金竜山の黒い木立の向こうの空に,ようやく沈んだ入日の残照が赤く映えて,川の藍と美しい対照を形作っている。近景の地面の黄色もよく調和して,全体に夕暮時のしずかな明かるさをたくみに表わしている。船や人物のゆるやかな運動感の表現もうまい。白帆の相似した形を,大小遠近差をつけて併置することにより反復するリズム感を起こさせ,近景の河岸を行く荷を担いだ物売りを船と反対方向へ向かわせておのずと速度感を表出している。広重が常套する手法であるが,この情景に無理なく融和して情趣感さえかもし出している。地紙形の枠外を薄藍でつぶし,枠内の黄・紅・塹を引きたたせた配色効果もよい。
賛の狂歌は「仏ます山の紅葉のあかさ堂うつる夕日の光りたふとし 梅樹園花芳」。「仏ます山」は,仏のいらっしゃる山の意で,観世音菩薩を安置した金竜山をさす。「紅葉のあかさ堂」は,紅葉の赤色から「あかざ堂」すなわち「藜堂」を連想したもの。藜堂は『江戸名所図会』巻之六の挿絵中の説明文に「往古土師臣中知をよひ檜前浜成武成等の主従浅草川に網して観音大士の霊像を感得せし頃,此地の草刈集て藜※をもて仮の御堂を作,其内に彼本尊を安置し奉りけりといひ伝ふ。其旧跡は今の東谷一の権現の地なり云々」とあり,また同本文にも「一権現社同所顕松院の境内にあり。土俗あかむ堂と云ふ。往古当寺本尊観世音出現のとき,草刈の輩蓼をもって柱とし,ひとつの草堂を建ててかの霊像を安置し奉りし旧跡なり。故にあかざ堂と唱ふべきを後世謬って阿加牟堂といへり云々」とある。この顕松院は浅草の花川戸二丁目辺りにあったが明治20年に廃寺となり医王院に合併した。狂歌の意は,観世音菩薩のいます金竜山の蓉堂に照り映える夕日の光が尊く感じられるという程の意。
※あかざ科,野生の一年生草木,若蔵は食用,茎は老人用杖となる
高輪秋月
東海道が江戸の喉口高輪を過ぎるあたりに来ると,この辺から品川以西の海岸線を一望に収める佳絶の風景が展開する。宝永7年海道の左右に高札場用に築かれた石垣は江戸の入口をシンボライズするとともに海岸風景に情趣を添える景物でもあった・大木戸と称されたこの場所から品川の海を望む風景を広重は好んで描いている。当図は広重が好むその地点の,しかもこの画家が得意とする秋夜明月の状を芸術意欲の赴くがままに描き込んだと思われるほど気の入った秀作である。ほとんど藍と薄墨を主調に,その濃淡とふきボカシ技法を巧みに調和させて画面のすみずみまで秋爽の気と清涼の月光の映発感を描き込んだ当図は,迫真味とともに格調の高さまでもたらしている。画面を横切る水平線がはなはだこの構図を締まりのあるものにしている。
賛の狂歌は,「高なはの飾らぬ牛の車にも月の都をしのふ秋の夜 琅玕園直喜」。この高輪には俗称牛町,本当の名は車町という牛を多数畜養している所があり,荷を引かせる大八車も多かった。画中石垣の傍にある車がそれである。この装飾も何もない牛車を見ても,きらびやかに飾った王朝貴族の乗用車である肇14応)往来する月の都(帝都の美称。当時の京都)のことが,この秋の夜に思い起こされる,といったほどの歌意。作者琅玕園直喜は呉竹直喜とも号し,他に上林亭,又俳号を藁宇ともいう。通称は伊勢屋宇兵衛,江戸小伝馬町の人で,狂歌は山桜連に属していた。一般に狂歌の入った広重の錦絵は絵の出来の良さに比して狂歌の内容が劣るのが通例で,この東都八景シリ-ズもその例にもれないが,中でこの琉耳園の作は比較的情景に即している。
真乳夜雨
真乳は真土あるいは待乳の字をあてるのがむしろ普通である。浅草寺の末寺本竜院の境内にある小丘で,丘上に本竜院の本尊の聖天を祀った社がある。隅田川に臨み,対岸側から眺めると特色ある風景を形作っている。広重はこの真土山にそそぐ夜雨の風情を描いた。山の下を隅田川の川筋と直角に入って行く堀割は硲堀で,遊客はこの堀へ船を漕ぎ入れて吉原に向かう。堀の入口近くかかる橋は今戸橋。これら一帯を夜の闇が包み,さらに蕭々と雨が降りそそいでいる。全体に薄墨と茶色を主調とした状景を,胡粉で施した雨脚が一面に包んで,沈んだわびしい夜雨の気分を如実にかもし出している。
賛の狂歌は,「花なへて小草そめんと夜もすから山のまつちに雨そゝくらし 潤下園船盛」。「花なへて」の意やや不明だが,「花なべて」すなわち花をひっくるめての意か。花も小草もひっくるめて染めようと,一晩中,山の真土に雨がふりそそぐらしい,という程の意であろう。
佃嶋帰帆
隅田川の河口,永代橋の向かいの海中に位置する佃島は,江戸に属していても漁業をいとなむ一村落であった。この島を背景に隅田川口を往来したり沖合に碇泊する商船の群れは広重の好画題となっている。当シリーズで広重はここの帰帆の情景を取り上げた。夕暮時この佃の沖へ帰来する白帆の影は,水平線上の紅色の夕焼けを背景に風情ある趣を呈している。近景に2艘,遠景に3艘それぞれ広重のよく用いる相似形の反復描法がこの画面でははなはだ効果を挙げ,現実感を覚える。藍と薄墨と薄紅を基調とした簡単な配色が用法の巧みさに生かされ,うらさびしい夕まぐれの情景をよく表出している。落款下にただ1ヵ所用いた紅の印が画面をここで引き締めている。
贅の狂歌は,「真帆引てかへる佃に夕月の御舟もおなしむやひするらし 重堂」。「むやひ」は「舫ひ」で,船と船とをつなぎ合わすこと。「もやひ」ともいう。帆を引いて船が帰ってくる佃の沖に,船の形をしている夕方の三日月もほかの船と同じようにW舫うようである,というほどの歌意。三日月の影を船に見立てたおもしろさを詠じたもの。
両国暮雪
広重にとって手馴れた雪景とはいえ,当図の暮雪の零囲気描写ははなはだみごとである。薬研堀方面から両国橋を見通して対岸の東両国へ至る構図の送り込み方が,はなはだ自然で,色調も美しい。対岸の,一きわ高く見える軽業の見世物小屋や相撲の櫓,船宿等の繁華区域の雪化粧に対して,近景に1本,雪をかぶった枯れ柳を配した配慮がよくきいて,冬のさなかの降雪の冷たさわびしさというものをよく表わしている。手前の橋は元柳橋(のち難波橋)であろう。橋上の,開いた傘を傾けた人物と対
照させて,図の左下方に配したつぼめた傘の人物および簑笠の人物とのバランスがよくとれており,全体に安定感を覚える構図である。
贅は「両国の橋のたもともふさくにもたた白たへの雪の夕くれ 蝶舞?見揚」。「橋の袂」(橋のそぱの意)という慣用語句から「たもともふさぐ」と機知的にいいかけたもの。両国橋の際に立って,寒さに袂をふさごうとするにしても,ただ一面真白に雪の降り乱れる夕暮である,という程の意にとれる。
不忍落雁
上野の不忍の池に落雁を配したとり合わせは,この池が水禽類とかなり関係をもっているだけに,結び付きが自然でふさわしい。上野山下側から池中の中島弁財天堂を中心に,本郷台方面へかけて望んだ構図が,ぴたりとよく地紙形画面中に収まっている。枠外の黄つぶしに対して池の藍,空の薄紅がこころよい映発を見せている。全体にさわやかな色調である。
賛の狂歌は,「しのはすやをとめの宮に似あはしく琴柱なっておつる雁がね 翁屋真向」。「をとめの宮」は,中島の社の祭神弁財天が女体であるところからこの社をさしていったものであろう。「琴柱」は琴(筝)の弦の下に入れてこれをささえ,音の高低を調節する人字形の器具。この形を雁が翼を広げて飛翔する姿に見立てている。歌意は,不忍池にある弁財天堂の祭神が女神であるのにふさわしく,おとめがひき鳴らす琴に用いる琴柱の形にも似た姿で雁が水面へおり下がって来ているといったほどのもの。
近景の土手の斜面,島のまわりの水中に施した平行線風の隈,対岸の水際部の隈は,藍色に近いものと,緑色のものとがある。
上野晩鐘
広重は晩鐘に上野の東叡山寛永寺を選んだ。花見時にこの寺で聞く入相の鐘の風情はひとびとの感傷をそそり,文に絵にとり上げられたところである。図は山下方面から寛永寺の坂を通して黒門を望んだ写生で,遠景の白点は山内の夕桜であろう。近景に見える橋は三橋と呼ばれた橋。横絵ならやや間のびのする地形であるが,扇面地紙形であるために,かえってよく納まり,三橋の内の二橋を両下端に分けた着想がはなはだ利いている。頂部の墨ボカシは暮色の迫る感じをよく表わしている。
賛の狂歌は「入相の鐘にうへ野は桜見の妹が姿の花もちるらむ 梅香亭花丸」。歌意は,夕暮時の鐘が鳴ると,上野の花見の美しい女性にも似た桜花が散るようである,といった意。
洲崎晴嵐
晴嵐には,晴天の日立ちのぼる山気の意とあらしの意とあり,もとは前者が用いられていたが後年は後者の方の意にとられている場合が多い。広重の八景ものではすべてあらしの意で作画されている。選ばれた場所は洲崎。元禄年間に築き立てた海浜の波除けの土手が弁財天の社に続き,海を見晴らして佳景の地であった。この土手を絵の主題材とし,その起伏高低の状を無理なく表わした広重の写生手腕はみごとである。黄を主体とし藍と薄墨と緑をあしらった色相の諧調もよい。画面左下隅に橋を設け,その上を往来するわずか2人の人物がこの絵にリアルな感じを大きく送り込んでいる。
賛の狂歌は,「波の花ちらすあらしの後にまた晴るる洲崎のなかめおかしも 初音里子」。波を花のように散らさせた嵐がおさまり,そのあと晴れた洲崎の眺めはおもしろい,といったほどの意味であろう。